霊帝(れいてい)は中国後漢の第12代皇帝。解瀆亭侯劉萇(建)の子。解瀆亭侯劉淑の孫。河間王劉開の曾孫。章帝の玄孫に当たる。日本の東漢氏一族(坂上氏・大蔵氏・丹波氏等)は霊帝の末裔を自称している。
人物 [編集]
桓帝(劉志)に子がいなかったために、桓帝の崩御後に陳蕃らにより擁立された。宦官と外戚の権力闘争で疲弊したと評価される後漢であるが、霊帝の治世になり宦官の優位が決定的となる。即位の翌年陳蕃らによる宦官排斥が計画されるが、事前に露見し宦官らの逆襲を受け桓帝時代の外戚は排除され、宦官が権力を掌握した。霊帝本人は暗愚な人物で、宮殿内で商人のまねをしたり酒と女に溺れて朝政に関心を示さず、政治の実権は張譲ら十常侍と呼ばれる宦官らに専断されることとなった。 また、売官を行うなど「銅臭政治」と呼ばれる、賄賂がまかり通る悪政を行ったため、売官により官職を得た者による苛斂誅求により民力は疲弊し、同時に治安の悪化を惹起したため後漢の国勢はますます衰退していく。
社会が不安定な184年、大賢良師・張角を首領とする黄巾の乱が発生する。反乱により後漢王朝は危機に見舞われたが、董卓や皇甫嵩ら地方豪族の協力と、張角の急死により鎮圧に成功した。しかし、反乱により後漢正規軍の無力化が露呈し、地方豪族の台頭を許すこととなった。
189年、国内がさらに乱れる中で崩御。後継者を明確に定めていなかったため、崩御後に実子の劉弁と劉協との間で皇位継承争いが起こることとなった。
霊帝の時代は宦官を重用し、民衆に重い賦役を課して民心は完全に離反した。黄巾の乱の結果、皇帝権力が衰退して地方豪族の力が強大化し、三国時代への前段階の時代となっている。
皇帝直属の常備軍創設構想 [編集]
188年10月に霊帝は「皇帝直属の常備軍」の創設を構想したと言われている。当時王宮警護の近衛は存在したものの、大規模な常備軍は存在しなかった。必要に応じ地方から兵を徴集して軍を編成していたのである。しかも地方から徴集される兵の大半は、農民から徴兵した兵士であったため質も低かったと推測される。そのため「戦闘を専門とした質の高い近衛軍」を編成し常駐させるのは、歴代皇帝の悲願でもあった。霊帝自ら無上将軍と名乗り、その下に西園八校尉と呼ばれる8人の指揮官を置いたのはそのためと思われる(指揮官の中には若き日の曹操や袁紹、淳于瓊がいた)。西園八校尉に関する具体的な軍編成規模は解明されていないが、1万人規模相当であったのではないかと考察されている。この近衛軍の編成に必要な経費負担が後漢の国庫を切迫させたが、後に曹操がこの八軍編成を引き継ぎ、魏の国軍編成の根幹になったなど相当の完成度であったと考えられる。魏以降の歴代中国王朝でのこの制度は継承され、中国の国軍編成制度として受け継がれていったのである。霊帝が売官を行ったのは近衛軍編成のための費用に充足させるためではなかったかとも言われている。実際には創設途中で霊帝が崩御したため後漢での完成を見ることなく、前述した通り曹操によって実現される事となる。
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