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新政権の発足

皇極4年(645年)6月14日、乙巳の変の直後、皇極天皇は退位し、中大兄皇子に皇位を譲ろうとしたが、中大兄と鎌足との相談の結果、皇弟・軽皇子が即位し、孝徳天皇となり、中大兄皇子が皇太子になった。これは、推古天皇の時、聖徳太子が皇太子で政治の実権を握っていたことを模したものであると推定されている。新たに左右の大臣2人と内臣(うちのおみ)を置いた。さらに唐の律令制度を実際に運営する知識として国博士を置いた。この政権交替は、蘇我氏に変わって権力を握ることではなく、東アジア情勢の流れに即応できる権力の集中と国政の改革であったと考えられている。

天皇 孝徳天皇、皇太子 中大兄皇子
左大臣 阿部内麻呂臣(あべのうちまろのおみ)、右大臣 蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだのいしかわまろ)、内臣 中臣鎌足
国博士 高向玄理(たかむこのくろまろ)、国博士 旻(みん)
6月19日、孝徳天皇と中大兄皇子は群臣を大槻の樹に集めて「帝道は唯一である」「暴逆(蘇我氏)は誅した。これより後は君に二政なし、臣に二朝なし」と神々に誓った。そして、大化元年と初めて元号を定めた。

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8月5日、東国に国司(くにのみこともち)を遣わし、新政権の目指す政治改革を行うこととした。これらの国司は臨時官であり、後の国司とは同じではない。それは8組からなっていたが、どの地域に遣わされたかは定かではないが、第3組は毛野方面に、第5組は東海方面に遣わされたと、後の復命の論功行賞から推定できる。新政権は、このような広さを単位区域にして8組の国司を東国に派遣した。

鐘櫃(かねひつ)の制を定める。また、男女の法を定め、良民・奴婢の子の帰属を決める。
9月には、古人大兄皇子を謀反の罪で処刑。皇子は蘇我氏の血を引いていて、入鹿によって次期天皇とされていたが、乙巳の変の後出家し吉野へ逃れていた。
12月に都を飛鳥から摂津の難波長柄豊碕宮へ遷都。

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2009年11月26日 00:48に投稿されたエントリーのページです。

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